Der Tod in Raptus? (5)

その夕方、いつものように食堂に行くと、あの家族がいた。私は、再びこの家族・・・いや、あの
少年に会えることができるということに、無上の喜びを感じた。ここにいる限り、私は、毎日、あ
の少年を目にすることが出来る・・・。今の私に、それ以外に望むことが、何かあろうか。
その意味では、私はむしろ、○○国の宇宙への渡航便が当面不通になっていることを感謝し
た。○○国からの宇宙への渡航便が再開しない限り、この家族は永久にこの地に留まるの
だ。私とあの家族がラプツス星という密室に閉じ込められたこの時間が、永遠に続いてくれれ
ばいい・・・私は、卑劣にもそう思った。

その翌日の午後、少年だけが海岸に現れた。あの両親は、一緒でないようだ。こんな、またと
ない機会が訪れるとは・・・。私は、心を躍らせながら、少年の後を付いていった。その日のビ
ーチは、私にとって、この上なく美しく感じられた。
その日は、他の観光客も少なかった。Paradisusホテルのプライベートビーチは、ほぼ、私と少
年の貸切状態だった。私は最初、いつものようにシートに寝そべって、少年が遊んでいるのを
眺めていた。
30分位経っただろうか。気づくと、少年こちらのほうを見ている。少年は、だんだん私に向かっ
て接近してくる。私の邪な欲望が、この少年に見抜かれていたのだろうか・・・。私はマスクの下
で、顔を赤らめていたに違いない。しかし、それは少年には分からない。
少年と私との距離がほんの2メートルほどに近づいたとき、少年の足は止まった。足を止めた
少年は、あらためて、私の顔を覗き込む。猫のような、妖艶な目で私を見つめている。
突然少年が、私に微笑んできた。そのとき私は、一体どんな顔をしていただろう。マスクのお蔭
で、少年に自分の表情が見られずに済むことに安堵を覚えた。少年は、私に何かを言いたげ
であったが、何も言わず、また暫くすると、海に戻っていった。
少年は、何やら光るものを手に持っている。
「これ、よかったら・・・。」
少年は私にそう言って、桃色の小さな貝殻を渡す。私は驚いて、少年の顔を見つめる。
「僕、何個も拾ったから・・・。」
貝殻を渡す時に、少年の手が私の手に触れる。
「有難う。」
私は、それしか口にできない自分が情けなかった。あの少年に語りたいことは山ほどあるはず
なのに、その時の私は、「有難う」の一言を言うのがやっとであった。
少年は私に貝殻を渡すと、ホテルに向かって歩いて行った。10メートルくらい歩いたとそんな
少年に軽く会釈をするのがやっとだった。

この少年は、今、確実に私の心を占めている・・・いや、余りにも占めすぎている・・・。私は、こ
の少年と会ってからの自分の変化が、我ながら不思議であった。
若い頃・・・20歳頃の私は、女にも男にも不自由をした事がなかった。10歳足らずのときに親
のスパルタ教育に反発して家出をし、悪行超人に近いような生き方もしていた時期もあった。
少年が見知らぬ地で一人で生きていくために、多くの危ない橋も渡ってきた。そして、いやしく
も、自ら反発した親から受け継いだ血筋と英才教育のお蔭で、欲しいものは、知恵と勇気と力
を使って、何でも手に入れてきた。いや、手に入れてきたつもりだった。
しかし私は、そのような中で、孤独な自分を癒してくれる何者か、本当の自分を理解してくれる
何者かを求め続けていたのだ。私は、王族の長男に生まれながらも、重圧に耐え切れず、逃
げ出した、臆病な愚か者・・・。私は、所詮「半分」の、不完全な存在なのだ。だから、残りの「半
分」を満たしてくれる相手を求め続けた。惚れ込んで落とした相手に自分の理想を重ね、本当
の自分を理解してくれることを期待して自分の弱さをさらけ出し、相手にそれを受け止めてもら
うことを望んだとき、その相手はその重さに耐えられず、去って行った。そんなことを、学習効
果もなく、愚かにも何度も繰り返した。
そんな中、25歳を過ぎた頃には、私の中から残りの「半分」を求める衝動が失われていた。そ
れは、所詮孤独な人生を一人で生きていくためには、必要な「喪失」であった。私は、何者かを
理想化して、自分の残りの「半分」を求める衝動・・・これを、確かプラトンという大昔の哲学者と
の対話の中で、アリストパネスが「エロス」と言ったものだ・・・を失うことによって、精神的な強さ
と心の平安を手に入れた。そして、その代償として失ったものは・・・。
私が妻を娶らなかったのは、一つには、これが原因であるかもしれない。周囲には、家督を放
棄した以上、王位継承を巡る争いの悪夢を再現したくないからだと思われており、その想像自
体は、間違いではないのだが・・・。
30代、40代、50代と、関わった相手、連れ添った相手もおり、世間の口さがない連中には、
私は、恋愛関係には欲望に忠実な男だと噂されていたようだが、20歳の頃のように、自分の
全存在を賭けて相手を求め、相手を理想化して、相手にのめり込むようなことは、一度もなか
った。人は所詮、自分とは異なる人格を持ち、その全存在を所有することも、自分の全存在を
所有されることも不可能なこと・・・。その時々の相手は私にとって大切な存在であったが、冷
静に一定の距離を保っていることに、一種の心地よさを感じた。
しかし、今の私は一体何なのだ!
私の頭は、24時間あの少年のことを考えている。あの少年と会えたり会えなかったり、あの少
年が私に反応したりしなかったり・・・そんな些細なことに、24時間一喜一憂している。
あの少年のあらゆる表情、仕種、手足、体・・・全てが私にとって、神以上の存在に思えてなら
ない。そして、私の行動は、全てあの少年の行動に支配されている。私にとって、放射能によ
る被害を被る恐怖よりも、あの少年と会えなくなるという単なるそのことのほうが、遥かに深刻
な問題となっている。
私は、40年以上安定して保ってきた自己というものを、完全に見失ってしまった。40年以上前
に手放したはずの、「エロス」が再燃してしまった・・・。

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